2012年8月5日日曜日

JASCブログ8月1日:悔しさ


 はじめまして、国際基督教大学教養学部2年に在籍している市毛裕史です。第64回日米学生会議参加者で現代社会の起業と倫理に所属しています。会議が始まって5日が経ちましたが、昨日着いたばかりのようにも感じますし、もう1ヶ月以上みんなと過ごしているようにも感じています。このブログでは、81日のスケジュールを振り返った後に、これまでのJASCに対して自分が思うことを記そうと思います。

ダラスサイト5日目の今日は、Pr.William McWhorterによるテキサスに存在した強制収容所に関する講義に始まり、Sixth Floor MuseumというJohn F Kennedy元大統領が暗殺された地にある記念館を見学したのち、繁華街で食事を取り、RTミーティングで暑く議論をするという英語にまみれた充実した一日を送りました。

強制収容所。この言葉で皆さんは何を想起されるでしょうか。おそらく多くの方はあのナチスによるユダヤ人の強制収容所が思い返されることでしょう。僕も今まではそうでした。しかし今回の講義で、日本の教育では重視されずにきた、日本人が収容された強制収容所の存在を僕は深く胸に刻むことになりました。Pr.William McWhorter氏の講義では強制収容所の実態を俯瞰することが出来、また深い示唆に富んだ講義は大変興味深いものでした。しかしながら、講義が終わった後のディスカッションは、自分にとってJASCという学生が議論することの意味を再認識させてくれるものになりました。というのも、多くのアメリカ人の学生の口から、「講義にはバイアス(偏見)があった。」という意見が聞かれたのです。講義にはある程度ではありますが、強制収容所に対する前向きな評価が見られました。私自身その意見を否定することはしません。確かに、原爆に関連する「原爆のおかげで戦争が止まった。」というような意見のようにある一定の役割があったのだろうと思います。しかしながら、強制収容所という存在が内包している問題にも目を向け、再考する必要性をディスカッション含めた講義全体で感じることが出来ました。アメリカの学生から聞かれた自分たちの国がしてきたことに対してきちんとした批判の目を持って対応している姿をみて、これこそが学生という、大学の、企業の、国の、特定の色を持たない学生という存在だからこそできる、自分自身の本音だけで語れるこの会議の意義を実感することが出来、うれしくなりました。
またそれと同時に、日本の戦争教育についても深く考察することが出来たと思います。今回の講義で強制収容所というものの実態を学ぶことが出来ましたが、果たして日本の若者で強制収容所の存在を知っている学生がどれほどいるでしょうか。確かに、日本が中国・韓国初めアジアの国々に実行してきた、いわば負の歴史についてきちんと認識することは必要です。しかし、同様に戦争という相手がいなければ成り立たないものをきちんと知るには、日本側が受けた傷もきちんと学ぶ必要があるのではないでしょうか。多くの日本側の学生が強制収容所の実態をこれまで知らなかったという状況を認識し、そう感じました。自分たちが行った暴力のみを認識し、再び戦争を繰り返さないようにと考えるのではなく、自分たちが受けてきた傷もしっかりと認識することで初めて、真の意味で戦争は繰り返されるべきではないといえるのではないでしょうか。稚拙ながらもこのような意見を、この講義、ディスカッションを通して持つことが出来ました。学生にしか出来ない議論、それは何者にもとらわれず、自分自身の意見をぶつけ合えるところに意味があるのではないでしょうか。

 これまでのJASCを通して、まだ5日間しか経っていませんが、自分が一番持っている感想は実のところ、楽しさでもなく、わくわくでもなく、純粋に「悔しい」という感情です。
上記のようにつらつらと講義について書き連ねてきましたが、実のところ講義自体はほとんどと言っていいほど聞き取ることが出来ませんでした。今までEC(実行委員)がせっかく用意してきてくれている講義スタイルのプログラムを自分はほとんど消化できていないと自分の中では捉えています。某集中治療室の英語プログラムの成果かどうかはわかりませんが、ディスカッションのなると聞き取ることが出来、内容についていくことができます。しかし、自分が意見を言いたくなっても、アメリカ側の学生による積極的な発言によって言う機械を逃してしまい、運よく発言できてもうまく自分の意見を流暢に伝えることができず、悔しい毎日を送っています。「日本語だったら、この議論のおかしいポイントを指摘することが出来るのにな、日本語だったら講義を聞いた後に質問できるんだけどな、日本語だったら・・・。」このような感情を毎日抱いています。しかしながら、自分の志望動機のひとつでもある、英語力の向上に対して目を背けることは、JASCを支えてくださっている皆さんに、自分を選んでくれたECに対して失礼に当たることであり、期待を裏切ることになってしまう上、自分に対しても顔向けが出来なくなってしまいます。自分の中では、一歩一歩ですが回りに助けられながら英語力を付けていこうと思っています。ノートの取り方、講義の聴き方、英語の言い回し、幸いにもJASCには自分の悩みに対して応えてくれる学生がたくさんいます。自分自身でもアメリカ側の学生と話す機会を多く持つよう心がけ、英語に触れることが無限に出来る今の環境を最大限に活かして生きたいです。今日のJFK記念館であるSixth Floor Museumの見学でも音声案内は英語を選択し、100%とまではいかないですが楽しむことが出来たと思います。
また英語力だけでなく、自分がJASCで果たせる役割についても未だ定まらず、不確かで、悔しい日々が続いています。「私は、この64回日米学生会議を今までの会議史上、最高のものにしてみせます!」と大声で誓った決意表明の日から3ヶ月近く経ちますが、果たして最高の会議とは何なのかすら見出せていない自分がいます。自分がこの会議に対して出来ることは何なのか、自分がどのように動けば最高の会議にすることが出来るのか。未だ模索の日々は続きますが、会議が終り、帰国した際に、何も成果としていうことがないといった感想を持つような状況だけは絶対に避けたいです。 
悔しい思いばかりしている毎日ですが、不思議と嫌にはならないし、体力的疲労も苦になりません。これからは、周りの学生たちにも目を配りながら、自分の出来ることを確実にこなしていき、少しでも最高の会議に近づけられるよう努力していきたいと思います。

 忙しく過ごしている毎日ですが、徐々にJASCとはどのようなものなのかをつかめてきている気がします。今現在、参加者の多くがなれない環境の中さまざまな悩みにぶつかっているように感じます。しかし、このような全力でぶつかっていける環境に感謝し、自分がどこまで行けるのか、みんなと共に挑戦し続ける一ヶ月を過ごしていきたいです。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

0 件のコメント:

コメントを投稿